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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

夕凪

         夕凪



 その男が鶴形山の東のどぶ板長屋に住み始めたのはいつの頃だったか。口うるさい長屋の女房達も覚えていない。いつの頃からか住み始め、どんな顔付で、何を生業にして、と問われても、逢っていても一度か二度、応えられないのが当たり前であろう。

 月のない夜にすれ違ったようなもの、聞くほうが野暮であろう。

 男はじっと家にいるというのではなく、よく家を空け、長い時は一ヵ月近く留守をする事もあった。

 男が家にいる時には、小鏨を打つ金槌の微かな音、擦るような響きが聞えていたはずだが、周囲の喧騒に掻き消されたのだろう。



 男の名前が分かったのは・・・。



 おさよが倉子城に来たのは、梅雨もあけようとしていた時期であった。おさよは大坂から海路で備前藩の下津井港に着き、高瀬舟で松山川を遡り四十瀬で降り倉子城へ入ったらしい。女の足ではその方が楽だし、危険も少ない。女の一人旅と言えば、三味線流しか、枕探しのような男顔負けの度胸がなくては出来なかった時代だったから、よくさがの事情があったのであろう。

 倉子城に入ったおさよは、本町に宿を借り、作兵衛を捜し歩いた。

 備中領内は広いが、倉子城村に限って言えば、二日もあれば隈無く歩けた。が、おさよは尋ねながら四日間捜した。それでも、作兵衛を見付ける事は出来なかった。足に食い込む草鞋が何足も変わった。

「倉子城で作兵衛に逢った」

 と言う噂を耳にしたおさよは、それを頼りに脚を運んだのであった。

 おさよは見つからないという落胆と、梅雨明けのこの地方の気候に疲れ切った。

 備中の夕凪は梅雨があける頃から始まる。昼間には海からの心地よい風が流れてくるが、夜になるとぱたっと立ち止まる。蒸し風呂の中にいるような夜が続くのだ。この土地で育った者ですら、

「魚に果物自然の恵み、天災少なく住みよいが、瀬戸の夕凪なけりゃ天国」

 と歌にしたほどの強かな夕凪であった。

 江戸育ちのおさよには耐えられずに体は衰弱して風邪を患った。数日、床に身を横たえたが起き上がる気力もなく、小働きのみつが付ききりで額の手拭を替えたのだが、恢復をしそうになかった。

「長旅とこの季節の所為でしょうな。よく眠って、美味しいものを沢山頂いて、まあ、ゆっくりと今までの疲れを取ると考えればどうでしょうな」

 呼ばれて診た医者の島田方軒が優しく言った。

「はい」とおさよは消え入るような声で頷いた。

 おさよにとって、作兵衛に逢えないという事がその原因であった。今まで張り詰めていた気力が無くなっていたのだ。



「なんだ、あれは心の病だな」

 と島田方軒が、床屋の嘉平に総髪の裾を揃えて貰いながら言った。

「へーえ、先生がそこまで入れ込むとなりますと、大層にいい女ということになりやすかね」と嘉平はからかった。

「そりゃあ、隅田川の水と松山川の水の違い・・・」

「どっちがどうなんでしょうねぇー」

「それにしても、不憫という他ないな。知らぬ土地で病になるとは・・・。おぼこではないが、嫁してまだ日が浅いと診た」

「なんです、脈を診たのではなく体付きを見たのですかい」

 と嘉平は言って頬を緩めた。

「この歳になって何が楽しみかというと、この仕事は何憚る事無く女子の裸が見られるという事だな」と、島田も鼻の下を延ばした。

「有り難いことに、私には娘がおりません」と嘉平は嗤った。

 その後、村に住む人達のことが二人の言葉のやり取りになり暫らく続いた。



 江戸時代、床屋は火消しの役を兼ねていたから、人の出入り、細々とした噂も沢山集まった。嘉平の頭の中には、倉子城村の総ての人の事情が入っていた。誰がどのような暮らしをして、何処に住んでいるということも知っていた。道筋、路地の幅、天水桶の場所、家並みと、生き字引であった。

「はるばるこの倉子城に来て病に・・・」と聞けば放っておく事は出来ない。嘉平は縄文顔の四十を少し過ぎた男であった。備中の人には稀な人情家でもあった。

 話を聞くと、嘉平はじっとしておれず、何度か尋ねて面倒を見た。事情を尋ねたが、訳を言わなかった。

「作兵衛と言う人を尋ねてまいりました」

 おさよは嘉平の親切が本物だということが分かったのか、ぽつりと頬を赤らめて言った。やつれて頬が少し窪んでいた。

「作兵衛!」と返して考えたが、嘉平の記憶にはその名はなかった。

「この半年くらい前から、流れ者がどこかへ住みついたって話は聞かねえかい」

 嘉平は髭をあたりながら船倉の川人足の甚六に聞いた。

 甚六は仕事のない時には賭け将棋をして小遣い銭を稼いでいるという男だ。一年くらい前にどこからか流れつき、居心地がいいのか腰を落ち着けていた。筋の張り方で元は武士であると嘉平はにらんでいた。

「聞かねえょ。あんたが知らねえのに誰も知るめいよ」甚六はそう言って、

「今度の代官は飯より将棋が好きだということだが、本当かい」と問った。

「らしいな、なんでも倉子城村の名うての将棋指しを集めて大会をやるって噂があるんだが、おめいも出てみる気はねえか」

「あっしなんかその資格はねえょ、それに肩の凝ることは御免だからな。・・・ああ、さっきの話だが、この前四十瀬の土手で・・・」

 甚六は思い出したように言った。

「おい、それから・・・」嘉平は急いだ。

「擦れ違った男だが、旅の男ではねぇ、・・・何か匂った・・・」

「それをなんで早くいわねぇんだょ、それで・・・」

「焼けるような・・・鍛冶屋じゃねぇ。この村の人ではねぇ」

「四十瀬か」と、何かを思いだそうとしているのか、少し手を止めた。

 行ってみるか、嘉平は何でもいい糸口が欲しかった。

 おさよのことを思うと、じっとしている自分がいたたまれなかった。



 次の日、嘉平は仕事の合間を縫って、四十瀬へと向かった。

 村の西の外れにある色町を通り抜け、農家が点在し綿畑が続く一本の道を松山川の土手へ向かって行く。以外と道幅は広く、行き来する人の数もまた多い。下津井、玉島、連島から倉子城への道なのだ。嘉平は辺りの景色を眺め乍ら、歩いていた。

 この辺りは少しも変わらねぇ、と、嘉平は呟いた。

「あら、珍しいじゃありせんか」と田地を耕しながら声をかける百姓のかかあ。

「床屋の旦那、今日は何か用で」と荷駄を引く作男。

 道筋には銀杏が天を突く勢いで伸びている。

 遥か向うにこんもりと茂った林が見えた。松山川の土手道の下に高瀬舟の船着き場である、そこが四十瀬。人が集まりぁそれ相応の店が開く。めし屋に、茶店、小間物屋と言う具合に。荷車が通よやぁ鍛冶屋もいる。舟が通うやぁ大工もいる。数は少ないが、小さな村だった。

「この辺りに、半年くらい前から越して来た者がいるかい」

 と、顔馴染みの茶店のお鹿ばあさんに尋ねた。

「あら、嘉平さんいつ見たっていい男だねぇー」とお鹿は世辞を言った。

「お鹿さん、あんたも年はくわねえな」

「なんだい、年寄をかからつてはいけないょ」

「そんなことはいい、聞いてなかったのかい・・・」

「聞いてたよ。なにか訳ありの男のことだろう」

「そうだ、なにか心当たりがあるのかい」

 お鹿が言うには半年くらい前、ふらりと茶店にやって来て、

「この辺りに、砂鉄が出ると聞いたのだが何処か分かるかい」

 と尋ね、

「少しの間、身を置ける場所はないだろうか」と言ったという。

 お鹿は、その男が背負っている哀しみを感じたので、うちを手伝っていた飯盛り女が嫁いだ鶴形の東の早瀬の長屋を世話したと言った。

「それで、ここで作兵衛と逢ったのか・・・。よく此処へは来るのかい」

「あの人が何かしたのかい」

「いや、少し尋ねたいことがあってな」

「今年も銀杏がまた一段と元気がいいな」と続けた。

「ああ、はい」お鹿は嘉平の視線に習った。

 早瀬か、とんだところに落し穴。あそこは分かりにくいと嘉平は思った。

「ここに立ち寄ったら、嘉平が尋ねて来たと言ってくれ」

 と言い残して、その足で倉子城へ引き返した。

「作兵衛の家はどこだい」

 棟割り長屋は通路を挟んで同じ建て方で向かい合い、中央に井戸を置く。入り口は半間の板戸の障子張り、三和土を挟んで台所に板張の仕事場、障子を開ければ四畳半、押し入れ、障子に二尺の濡れ縁と雪隠、突き当たりが隣の板の塀。

 商家の家作は殆どこんな具合に決まっていた。

「作兵衛、そんな人がいたかね」

 と井戸で大根を洗っていた狐のような顔の女が言った。

「居ると聞いて来たんだ」

「そういゃあ、隣の奥に・・・」

 嘉平は聞くか聞かないうちに、ありがとうよ、と言って、走っていた。

 同じ風景だ。入り口を軽く叩いた。返答がない。強く叩いた。

「御免よ」と声をかけて、引いてみた。重い音だが動いた。

「居るのかい、それとも留守かい」と声をかけながら入った。

 すえた匂いが鼻を突いた。

「この分じゃあ、長旅に出ているな、ひょつとしたら帰らえねえかも知れねえ」

 不憫なおさよを思った。

 嘉平は部屋の中をじっくりと見た。

 なにもない、貧相な男一人の部屋だった。仕事場には、二尺ほどに切った木株があった。嘉平は目を凝らして木株を見入り、手で撫ぜてみた。

 金銀の粉が指先に着いた。

「錺(かざり)職人だな」と嘉平は当たりをつけた。

「作兵衛は錺職人かい」とおさよを見舞って問った。

「居所が分かったのですか」おさよは起き上がろうとした。

「無理をすることはないよ。ああ分かった、だが逢えなかった」

「私をそこへ連れていってください」声に張りが出てきていた。

「きっと、作兵衛とやらとの段取りは着けるから安心しな」

 嘉平はそう言って帰ろうとした。そういやあ、店をほったらかしている事に気づいた。「お願いのついでといえば厚釜しゅう御座いますが、これを作兵衛さんに渡してくださいませんか」と言って、包みから簪を取り出して、嘉平へ渡そうとした。

「貴女はもしや、お武家の・・・」

「はい」おさよは俯いた。その細いうなじが嘉平の心を震わせた。それはおさよの定めを表していた。嘉平はもう何も言えなかった。

 おさよは少しづつ語り始めた。

 作兵衛とおさよは江戸の生まれで隅田川の近くの同じ長屋で育った。作兵衛は父が錺職人だったから、その後を継ぐべく手伝いだしたのは七歳の頃からだった。

 おさよは六歳の時から子守をして家を助けた。が、十二の時に奉公に上がり、そこで見初められて子供のいない御家人の養女に迎えられた。

 作兵衛とおさよの定めはそこでくるった。

 作兵衛は父に仕込まれ筋がいいのか腕を研き、江戸でも何人もいない錺職人になった。おさよには、養女先の家に婿養子が迎えられることになったが、おさよはなにも言えない立場だった。

 作兵衛は江戸で評判の錺職人になり、気が向かなかったら仕事をせず、注文を受けても前金だけ貰って納める日は決めなかった。だが、何時になっても構わぬからという注文が絶えなかった。

 作兵衛のところに、おさよの養女宅から婚礼に間に合うようにと簪の注文が入った。

 作兵衛はおさよの婚礼が決まったことを注文で知ることになった。

 その日から作兵衛の姿が江戸から消えた。

 おさよの婚儀の日に簪が届いた。

 おさよは、目にいっぱい涙を浮かべて言った。

「その簪が・・・」

 嘉平は簪を手にとってじっくりと見詰めた。鴛鴦が向かい合い泳いでいる、そんな絵柄が彫り込まれていた。これほどの細工は見たことがなかった。

 こりぁ、百や二百ではない・・・と思った。

「返す必要があるのですかな」

「はい」おさよはきっぱりと言った。

「どうして・・・」

「どうしてもです」病人とは思えない声音であった。

「なにか訳ありなのですな」

 おさよは小さく頭を垂れて、頬に落ちる雫を細い指で引いた。

「私には、この簪を受け取る資格はありません。日本一の錺職人の簪を髪に挿す・・・そんな・・・」

「約束でもしていたのですかな」

「はい」おさよは素直に答えて、

「その約束が守れなかったのです」小さく言った。

「そうかい、おおよその見当はつくが・・・、それで気が晴れるのかな」

「あの人の手で造られたものを一つでも側に置いていたい、でもそれでは・・・」

「苦しまれましたな」

「はい」

 嘉平はどちらの気持ちも分かる。分かるだけに哀しい。

「返したいからここえ」

「出入りの小間物売りの話で、備中は倉子城の辺りで作兵衛さんを見たという・・・」

「それで・・・」

「はい。何も考えずに・・・」

 嘉平は黙り込んだ。悲しみと幸せ、これほど人を愛惜しいと思ったことはなかった。

「お願いできましょうか」

「それでいいのかな、本当に・・・」

 嘉平の声が潤んだ。

「はい」かすれた声がはっきりとしていた。

「それで、これからどうしなさるんで」

「江戸に帰り事情を言って・・・」

「今じゃそれも出来ますまいな」

 陽が落ちる前の西の空が真っ赤に燃えていた。その陽に向かって二羽の鳥が渡っていた。それは、作兵衛が彫った鴛鴦のように見えた。



 嘉平の店に作兵衛が尋ねてきたのはそれから半月ほどしてであった。

「このあしに何か御用で、親方に何度も脚を運んで頂いて・・・。西に行ってやしたもので・・・申し訳ありやせん」

 作兵衛は丁寧に頭を下げ挨拶をした。

 まだ若いが、一つのものを極めた者が持つ風格があった。鋭い鷹のような目の奥に優しい輝きがあった。

「これを返してくれと頼まれたもので・・・」

 嘉平は奥へ入り大切に仕舞ってあったおさよから預かった簪を持って来て、作兵衛の前に出して言った。そして、作兵衛の仕草を見詰めた。

「この代金は頂いてやす」

 きっぱりと言ったが、指先が震えていた。

「この簪を持って来たお人のことは尋ねないのかい」

 嘉平は少し意地悪を言った。

「関係が御座んせん。その人に言っておくんなせい。この簪は、ひと鏨ひと鏨この簪を挿す人の幸せを願って打ちやした。・・・幸せになっておくんなせいと・・・」「おめいさん、本当にそのお人の幸せを考えるなら、職人としてそこまでやてはいけないね・・・」

「ええ!」作兵衛は俯いていた顔をあげた。

「この簪を挿すお人のことを考えたら、この簪には魂を入れちゃあいけなかったのではありますまいか。この簪を挿すお人はどんな思いで挿せばいい・・・。おめいさんは恨みでもあるのかい」

「ああ」何かに気が付いたように作兵衛は声をあげた。「ここはこの私に任せてはくれないかい」

 作兵衛はうな垂れて耐えていた。

「何もかも捨てて、風の頼りでおめいさんが倉子城にいると聞いて訪ねて来たおさよさん。簪を挿そうとしても挿せなかった辛さ、この鴛鴦、もう帰るところなんかありませんからね」



 今、この簪は倉子城のある家の箪笥の中に大切に仕舞われている。





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